北河内地域文化誌「まんだ」76号所収

続古今和歌集より「鏡伝池」


  楠葉に「鏡伝池(きょうでんいけ)」と云う名の池がある。最初は比較的大きな池であったが、いつの頃にか中堤防によって上池と下池に分けられ、現在では、下池は埋め立てられて運動場になり、上池も市民公園として整備されて狭められてしまっている。

 この池は、古来、月の名所とされていた。続古今和歌集の巻第十八雑歌中に収められている藤原実経(さねつね)の歌、
「くもらじな真澄の鏡影そうる楠葉の宮のはるの夜の月」

は、この鏡伝池に映る春の夜の月を詠んだものである。

 
【歌の解釈】

 この歌には「日本紀を見侍りて継体天皇を」と云う詞書(ことばがき)が付いている。従って、この歌は単に、池に映る月を詠んだだけのものではなく、この池のすぐ上にあったと伝えられる楠葉の宮で即位する継体天皇の威風堂々とした姿と、その「くもりなき」清い心を称える意味をも持つものであったと考えられる。

 従って、歌の歌意は
「澄み切った鏡のような池に、春の夜の月が、いっぱいに光を溢れさせ、楠葉の宮も光を浴びて池に影を落としている。この宮で即位された継体天皇の御心も、この池のように曇りなきものであった」

 ここで、
○「真澄の鏡」は、「澄み切った鏡」の意味で、次の「影」を引き出す枕詞でもあるが、ここでは鏡伝池を指すものである。
○「くもらじな」は「曇っていないことだなあ」と云う意味で、池が鏡のように曇りなく澄んでいることと、継体天皇の心の曇りないことを称えたものである。

 
【続古今和歌集】

 平安時代から室町時代にかけて撰ばれた勅撰の和歌集は全部で二十一あり、これらは二十一代集と呼ばれている。続古今和歌集はそれらのうち第十一番目のもので、鎌倉時代の中頃、後嵯峨天皇が藤原為家に選ばせ、文永二年(1265年)に撰進された。文永二年と云うと、蒙古の影がひたひたと迫り、京も鎌倉も騒然とした雰囲気の中にあった時である。

 撰者の為家は、俊成の孫、定家の子に当たり、和歌の名家の伝統を継いだ人物である。この続古今和歌集の撰者としては、この為家の他に更に四人、家良、基家、行家、光俊が名を連ねている。これは鎌倉時代初期に藤原定家が選んだ新古今和歌集が、定家を含めて六人の連名となっている故事を踏んで、後から加えられたもので、為家としては憤懣やるかたなく、相当の悶着もあったと伝えられている。

 
【左大臣関白藤原実経】

 藤原北家の嫡系は、平安時代の末に、近衛、松殿、九条の三家に分かれたが、更に、近衛家は近衛、鷹司の二家に分かれ、九条家も道家の時、三人の子を祖として九条、二条、一条に分かれて、いわゆる五摂家の体制が作られてゆく。
 

 この歌の作者である実経は、道家の四男であるが父に寵愛され、所領も他の兄弟よりも多く与えられた。そして、父が造営した一条坊門の邸を伝領したので、一条家を称して、その祖となった。左大臣となり、後嵯峨天皇の時に関白、次いで後深草天皇の摂政となり、また、亀山天皇の時、関白に再任される。

 平成十三年度のNHKの大河ドラマ「北条時宗」では、この藤原実経の役を井上順が演じている。そのためもあってか知らないが、私は、この実経と云う人物には、ただ平凡で凡庸な堂上人と云うイメージしか湧いてこない。

 なお、土佐国西部の中村を中心として領国を築いた戦国大名土佐一条家は、この実経が父から与えられた土佐国幡多荘の荘園から起こったものである。すなわち、実経から七代目の教房が応仁の乱を避け、かつ、荘園が土豪たちから侵略されるのを防ぐために、土佐に下向したことに始まり、その子房家が繁栄の基礎を作ったものである。私は、この教房や房家の方によほど魅力を感じる。

 
【鏡池】

 この池は、もともと「鏡池」と呼ばれていた。地元では今もそのように呼ぶ人が多い。「鏡池」あるいは「鏡ケ池」と云う名の池は全国各地にあり、それらの中には、鏡を池に投げ入れて水の霊に祈願する祭祀がおこなわれたので、その名が付けられたものもある。従って、楠葉のこの池も、そのような祭祀に関するものである可能性も考えられた。あるいは、昔は鷹狩りの後、澄んだ池の水に鷹の姿を映して見せるのが例であり、この池でも、そのようなことが行われたために、鏡池と呼ばれたのだとも云われた。しかし、昭和58年〜60年に行われた発掘調査では、祭祀に関する遺物は全く出土せず、十三世紀以降に、段丘の台地に刻み込まれた谷形の地形の出口に、堤防を築いて作った潅漑用の用水池であると見受けられた。

 出土遺物の大半は瓦器や瓦質土器であり、奈良時代以前からこの地方で行われていた土器生産を明示しており、この池の谷の斜面にも土器の窯があったかも知れないと見られている。

 これらのことから考えると、鏡池と云う名は、恐らくは、池の水がとりわけ澄んでいたことから名付けられたものと単純に考えた方がよいように思われる。

 それにしても、この池が築造されたのは十三世紀以降であると発掘調査が結論していることは、続古今和歌集の歌との時間的関係をデリケートなものにする。すなわち、この和歌集が撰進されたのが一二六五年であるから、この池は、それよりほんの少し前、十三世紀もその初頭に作られたことになる。

 
【鏡伝池】

 では、この鏡池を、現在では何故「鏡伝池」と呼ぶのか。

 いま、この池を通って交野天神社へ通じる緑の小道には、「鏡伝道」と云う愛称が付けられている。これは、平成二年に枚方市が市内22の路線について市民から愛称を募集して名付けたものの一つである。私には、他の道路の愛称よりも特に印象深く、良い名前のように感じられる。時間的には、鏡伝池と云う池の名前が先にあって、そこから、この鏡伝道と云う道路名が生まれたと云う前後関係であることは云うまでもない。

 かくて、私には、依然として「鏡伝池」と呼ばれるようになった理由は分からない。いろいろ調べてみた。いろいろの人に尋ねてみた。しかし、納得のゆく答えは得られなかった。

 昭和二十六年刊行の枚方市史には、里人はこの池を「鏡田池」(きょうでんいけ)と呼んでいると述べ、あわせて、この池の近くで「田毎の月」と称する銘酒が明治四十年頃に醸造されて、品評会で優勝したことがあると述べて、暗に、月の名所→田毎の月→鏡田池となったと記している。しかし、交野天神社の社務所で聞くと、「田」の文字を用いて「鏡田池」などと呼んだことはないと否定的見解である。結局何も分からない。

 
【もう一つの歌】

 この鏡伝池には、出展不明、作者不明ながら、もう一つの和歌が伝えられている。
「み狩り野の山鳥の尾のます鏡 池も夕日を今に照らして」

と云う歌で、その歌意は、
「ここから程近い御狩野に住む山鳥の雄の尾が、澄み切った鏡のように光って、雌の姿を映すように、鏡伝池もまた、昔の日と同じように、今日も夕日に照らされて輝いている」

 ここで、
○「み狩り野」は、ここから程近い禁野の朝廷の御猟地。
○「ます鏡」は、真澄の鏡と同じで、澄み切った鏡。
○「山鳥の尾」は、山鳥の雌雄は夜は谷を隔てて別々に寝ると云う伝説が我が国にあり、光沢があるオスの山鳥の尾には、谷を隔てた雌の姿が映ると云われていた。また、中国にも、「山鳥、鏡に向かいて鳴く」と云う故事があり、狩ってきた山鳥が全く鳴かないので鏡を見せたところ、それに映った自分の姿を、夫の鳥の尾羽根に映ったものだと思って恋しがって悲しく鳴いたと云う話である。いずれも、夫を恋い妻を恋う恋慕の情を意味するものである。

 従って、この歌も単に、澄み切った池の姿を詠ったものではなく、その池に託して、昔の日を思い別れた人を思う恋の歌である。
     

 
(謝辞)
二つの歌の解釈については、関西外国語大学助教授村上明子先生からご教示を頂いたを附記して謝辞を述べる。